歴史と展望

歴史と展望

天保年間から続く老舗酒蔵 吉野酒造は江戸後期、天保年間(1830年)に創業しました。

初代の佐次右衛門は下植野村(当時)の佐五右衛門の分家として酒造を業としたと言われておりますが、「享和三、玄年分酒造米高五拾石」という免許書様の書札が存在していることから、実際は天保年間以前から醸造していたものと思われます。

天保年間は衰微の一途をたどる状態にあったようですが、後に、佐次右衛門から吉野佐二郎に改名し、家業を繁盛に導いたことで「吉野酒造の中興の祖」と称されています。

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気持ちを寄せて明治25年、吉野佐二郎の逝去に伴い、息子の林蔵が佐二郎を襲名しましたが、若くして亡くなったため、林蔵の息子の辰次がわずか5歳で11代目佐二郎を襲名しました。

11代目佐二郎は、戦中戦後の困難を乗り越え、晩年に至るまでその生涯を家業に捧げ、米寿を迎えた年に天寿を全うしました。現当主の祖父にあたります。

「寂しきは 夜半の櫂音 寒造」 俳句を趣味としていた佐二郎が詠んだ句です。
夜半に杜氏が酒をかき回している音を「寂しい」と捉えたのは、故郷を離れ、秋から春まで働き続ける杜氏たちの気持ちに、佐二郎が寄り添っていたからこそではないでしょうか。

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日本人のこころと日本文化11代目が元気で酒蔵を切り盛りしていたおかげで、後に12代目となる長男の晋は、アメリカに留学後、商社に勤務し、アメリカを拠点に海外駐在員としてヨーロッパやロシアなど世界を飛び回りました。
佐二郎の逝去を機に商社を退職し、12代目として跡を継ぎましたが、晋以上に酒蔵の経営に積極的だったのが妻の美江子でした。

美江子は学生時代に国際見本市の通訳に採用されるなど、晋と同様に若い頃から海外に目を向けていました。

海外での生活はカルチャーショックを受けることも少なくなかったといいます。
親から「人に言われる前に気働きをせよ」と教育されてきたので、海外でもその気持ちを忘れずに現地の人に接しましたが、「余計なことをするな」と言われたり、荷物を持ってあげようとしたら泥棒に間違われそうになったり、醤油の料理が「におう」と露骨に嫌な顔をされたりもしました。当然日本酒など見向きもされなかったそうです。

そういう背景もあったからでしょうか、帰国して吉野酒造の副社長になった美江子は、海外の人に「日本人のこころ、日本文化の良さを知ってほしい」と、持ち前の社交的で快活な性格を活かし、精力的に活動しました。

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世界に挑む美江子は日本酒を世界に宣伝するパワフル・スポークスウーマンであり、世界に挑んだ人でした。

「日本酒はワインやビールなどよりもずっと複雑な醸造過程を経て造られる、世界的にも珍しいお酒。こんなにも手間のかかるお酒は世界でもほとんど例がない。人の和が造り出す優れた味わいの酒とこの素晴らしい文化を世界に伝えたい。」それが美江子の信念でした。

海外在住時の経験をもとに、日本大使館(ワシントン)でおこなわれた日本酒まつりや、ボストンでの利き酒会、「酒を通して語る日本人のこころ」と題する北米三都市での文化シンポジウムなどに参加し、世界に挑んでいきました。

両親の想いを継いで、より多くの海外の方に腰古井をより広めていきたいと思います。